これからの皆さんの精進を祈念して一言。
技とはなんでしょう?
茶道、華道、武道といろいろありますが、技の行き着くところは対立概念のない心の境界を会得する事とされています。
例えば、一見小乗的に見える武道空手の技の修得も関係性がゼロでは成立する事が出来ず、技の修得には関係性という大乗的要素を最初からすでに含んでいます。
そしてそれらは全ての事象がそうであり、自然界は対立概念では成立していない。だからこそ、身体性の文化は技の修得をもって知識で知るのではなくて身体でそれらを悟るという事が出発点になっていて、その出発点である自己を妥協なく見つめていきながら自分とは、生命とは、宇宙とはなんぞや?言う事を突き詰めながら、自らを内観してゆく!
これは日本文化の特徴であると同時に、骨格でもあります。
茶道の亭主とお客の関係も本来、存在はひとつ、自己と他者が存在するのではなくて、一期一会の体感をもって存在はひとつであり、対立概念を作り出すのは、それぞれの心が作り出す「業」なのだ、と言う事を悟る事を目的としています。
先人達がそうして感じた事が本来、自己はないという事だったのでしょう。
西洋では、自己と他者、神と人間、自然と文明、善と悪、愛と憎しみと、自己があるという事が出発点になっているため、常に対立概念が生じ、その対立的精神構造が歴史的にも、また今や地球規模で悪弊を投げ掛けている戦争や環境破壊などが、その典型的な例でしょう。
それらの事を鑑みても個人の人生にとっても、技をもって自己を見つめると言う日本文化は、なんとしても守らなければいけないものである事は、自明の理であると同時に、対立概念に技をもって執着しなくなってこそ、それは武道空手では、強さといい、また武道家と言うのでしょう。
そうなれば技は強く美しいし、茶道的に言えば、所作や言葉は人の心を打つはず、と言う事が身体性の文化の計る、バロメーターと古来から考えられてきました。
本来、全ての存在は対立していません。
私達の内と外を分けているのは、私達の想念であって、真実ではありません。
空はひとつであるけれど、空模様は日によって違います。私達の心と社会や自然は本来、自然がひとつであるため繋がっています。それらを啓蒙する事も私達、武道空手家の大きな責務でしょう。
という事は本来、大乗も小乗などもありません。そんなものは、学問上の区分けにしかすぎません。
自らの心の空模様に惑わされずに妥協なく、君が自らを省みて真に武道空手家として、大輪の華を咲かせる事を願っています。
空手道禅道会 首席師範
NPO法人 ディヤーナ国際学園 名誉学園長
心理楽普及協会 講師
小沢 隆