NPO法人 日本武道総合格闘技連盟 理事長
空手道 禅道会 首席師範 小沢 隆 師範
武道について
武道とは何であるのか。また、何をもって我が「空手道禅道会」の技術体系が武道であると言えるのか。武道の技の定義について書こうと思う。
まず初めに、人が人として定義される最大の特徴(個性)とは何であろうか。生物学的に見た場合、それは直立二足歩行を行っていることである。
我々の祖先は、長い時間を経て進化し、その過程の中で直立歩行する事を覚えた。そして、直立歩行が大脳の発展を促し、それが源となって様々な文化を創り上げてきた。その人類の歴史を顧みれば、直立歩行という行為が、人類史上最大の叡知の源であり、人の技の根元であり、技そのものであると言えるのではないだろうか。
次に、人の最大の特徴である二本足で歩くという行為を分析してみたいと思う。
人は、意識しなくとも、大気圧や重力などの様々な外的な自然現象に適応している。それは、人間の大脳の奥底に、外と内の自然を協調させて維持しようとする力、もしくは内的に起きた不自然を外的自然に対応させ自然に戻そうとする力が、生まれながらにして組み込まれているからである。
人が歩くという事は、そうした大脳に組み込まれた自然力(生命力)を形(技)にした根元的行為であると言える。詳しく説明すると、直立している姿勢(自然体)がやや前方に傾くことによって、一瞬、不自然体がそこに生じる。その不自然体を自然体に戻そうと左足か右足を出すと、また自然体(右自然体もしくは左自然体)に戻る。その繰り返しが歩くという技を成り立たせている。人はこの原理によって歩くのである。(当然、人は足の長さや骨格によって、その歩き方やフォームが違う。つまり、原理を表現する形は人によって違い、その形の独自性が一つの個性と言える。)
このように、歩くという行為は不自然から自然に戻そうとする力(生命力)に支えられた技であると言える。
そして、歩くという技と武道の技について述べてみようと思う。
簡単に言うと、武道の技とは、歩くという技の応用である。内的には、不自然から自然に向かおうとする根元的な力(生命力)の応用でもあるわけである。
身体的ハンディがある人以外は、誰でも歩けるはずである。確かに備わった人間が持つ個性を応用してこそ武道の武道たるゆえんであり、その応用をもってその人の個性が初めて開花されると考える。
厳しい言い方のようだが、その真理に適わぬ技術は、どれほど強大であろうとも、武道の技、人の技とは言わないのではないだろうか。
空手道 禅道会の立ち方に象徴される自然体は、まさに根元的な生命力の形であり、そこから繰り出される技(個性)はその生命力の拡大である。そして、その技の熟練によって、唯一の個性の成長を促し、ついには自らの生命力をも知覚できるまでに至るのである。
日本に残された武道という叡知は、まさに人の文化の結晶であると考える。武道の技とは、人の生命力強化とその個性拡大の一つの有力な方法論(文化)であると定義する。
礼について
武道は礼に始まり、礼によって終わると言われている。はたして礼とは何か。
それを一言で言えば、唯一の個性に対する尊重の念を形にした人の自然な動作である。礼儀とは、他人に悪感情を持たれたくないがないために行うものではない。そのような表面だけの礼儀は、自分を孤立させ、他人を気持ちの中で拒絶する、いわば鎧のようなもので、決して命ある動作とは言えない。
現代の儀式的習慣(お歳暮など)を見てみると、全てとは言わないが、表面のみの礼儀となっているような気がしてならない。そのような傾向からか、妙な義務感が生じ、それらに縛られるという感じになるのではないだろうか。
礼儀や儀礼的習慣なども、動作、行為の範疇に当たり前のように入るものであるから、生命力の延長線にあるものと考えられる。その動作に生命(心)を吹き込むことができれば決して不自由なものではないし、そこにこそ本質的な自由が存在するのではないだろうか。
その意味において武道の礼というものは、唯一の個性を尊敬し、尊重し合う和合の精神を表したものである。表面的にはお互いに闘う武道が、礼をもって初めて、お互いを高めるものへと昇華され、一つの道になり得るのではないだろうか。
生命は人であり、技は個性であり、礼は社会を表現しているのである。個々の生命と個性が、礼を通じて社会を構成されることが原点に戻って行う事ができれば、まさに和合の世の中と言えまいか。
話が話題からそれるようだが、現代の社会についても考えてみたい。教育、政治、芸術など人が作り出した全ての方法論は広い意味で文化であるわけなのだが、その大部分が礼を失っているような気がしてならない。
今こそ人類の歴史や全ての文化を礼もって検証するべき時期に来ているのではないだろうか。その論祖や論争は、決して争いではなく、和合であると私は信じる。故に、武道の闘いは和合であると断じるのである。
人は決して一人で生きているのではない。人の生み出した全ての文化を尊重し合いながら、その判別を行っていくことが、21世紀に生きる人の生きた責任と義務ではないだろうか。
武が道となり得る唯一の生命の形が礼であると思う。